大坂の陣・戦国のゲルニカ

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 「真田丸」も佳境の大坂の陣の話になりました。数年前に同じNHKの番組の「その時歴史は動いた」で、大坂夏の陣を描いた黒田長政の大阪夏の陣図屏風が「戦国のゲルニカ」という題で取り上げられていました。数年前に大阪城に正確な模写があると知ったので、見に行ったことがあります。

 この絵は六曲一双からなる屏風で、右から左へ時間的な推移を描きながら、武将たちの合戦の様子に始まり、その後に起きた雑兵たちによる濫防狼藉の様子が描かれています。「戦国のゲルニカ」という番組の題名は「なんだろう?」と人を惹きつけますが、無差別爆撃対する抗議として描かれたゲルニカと武功顕彰のために描かれた黒田屏風は、そもそも意図が違うとの意見もあるようです。

 戦に負けて大名家が断絶することは(その時に戦力の空白が生じて悲惨な状態になることは)しばしばありました。駿河の今川家、甲斐の武田家、小田原の北条家しかりです。ただし一時期天下を取ったほどの大々名家が籠城の末に数万の敵兵に囲まれ、逃げ場もなく降参することもかなわず、城下の民衆を抱えたまま瓦解する事態は未曽有の出来事でした。戦国時代の最も終わりに起こった・最も悲惨な戦いといえるでしょう。

 黒田長政が(豊臣恩顧の、黒田如水の息子の)直接制作を指示したこの屏風絵は、戦の悲惨さや豊臣家の愚かさを記録するためのものだったと思います。もし武将たちの勇壮な姿を記念に残すのあれば、わざわざ残すに値しない雑兵たちのふるまいを、屏風の半分も使って描く必要はなかったのではないでしょうか?

 黒田長政が描かせたのは「ゲルニカ」の動機とは違いますが、歴史を記録することへの執念のように思います。

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